円山応挙の眼差し。「写生の祖」と呼ばれた京都の天才絵師


円山応挙(まるやまおうきょ)といえば、どんな作品を思い浮かべるでしょうか。やはり三井記念美術館に所蔵されている国宝の「雪松図屏風」でしょう。墨と金と紙の白で描いた力つよい老松と今日せんが美しい若松は、日本絵画史に刻まれた名作の1つですね。タイトルでわからない方も作品を見れば、これか!とわかると思います。それほど有名な絵画作品です。円山応挙と同時代の絵師には、伊藤若冲曽我蕭白、長沢芦雪、与謝蕪村、喜多川歌麿などがいます。曽我蕭白は円山応挙をライバル視した1人として有名で、「画を望めば我に乞うべし。絵図を求めるなら円山主水よかるべし」と語っているほどです。

江戸時代中期~後期の絵師・円山応挙(1733-1795年)(享保18年-寛政7年)は、1733年(享保18年)に京都府亀岡市曽我部町穴太に当たる丹波国に生まれました。8歳頃に金剛寺に修行で入り、15歳頃に京都へ上がったのではないかと考えられていますが、特定はされていません。34歳までに「一嘯」、「夏雲」、「丸山左源太」などと雅号(がごう)(画家としての名前)を変え、34歳以降はから、1795年に亡くなるまで「応挙」と作品へサインしています。36歳(1768年)には京都の文化人を集成した名録「平安人物志」の画家の部門で二番(筆頭は大西酔月)に掲載されるほど、有名になっています。ちなみに三番は伊藤若冲、1775年には円山応挙は筆頭に、二番に伊藤若冲、十五番に曽我蕭白となっています。

応挙は、沈南蘋(しんなんびん)(1682-)という中国清代、浙江省の職業画家に多大な影響を受けており、沈南蘋の作品を模写するほどでした。沈南蘋のモチーフの存在感が強い、濃密で写生的な花鳥画は応挙だけでなく、伊藤若冲や与謝蕪村といった絵師達にも影響を与えています。その他に、中国の宋末元初の文人画家・銭選(せんせん)の作品も模写しています。模写することで、中国の花鳥画を勉強し、独自の写生スタイルを獲得していきます。
写生は、円山応挙以前、本画への過程で制作される下絵的なものでしたが、応挙は写生したモチーフを写生的に描くことで、これまでにない画風を作り出しています。これは応挙の特徴と言えるでしょう。

円山応挙を頭にした絵師集団の一派を円山派と呼ばれます。応挙は「写生の祖」と呼ばれるほど、写生画のスタイルを作り上げ、多くの弟子を持つようになります。弟子の中で、主だった10人の弟子のことを応門十哲(おうもんじってつ)といい、その中に長沢芦雪(ながさわろせつ)がいます。応挙は弟子達を集め、絵画制作の工房を作り、兵庫県大乗寺にある障壁画など、1人で描けないほどスケールの大きい仕事を工房で請け負っています。

その後、1788年、応挙が56歳の時に天明の大火が発生します。京都の町を焼き尽くした大火は、京都の人々の住居だけでなく、二条城や幕府の役所、摂関家(摂政・関白の地位を独占した最上級の公家)の邸宅なども焼失させてしまいます。1790年には京都御所が造営され、障壁画の制作の依頼を受けています。当時、この仕事は最高権威に夜お墨付きを得たという、絵師達にとってはとても名誉のあることでした。また、それまで、幕府に抱えられていたのは狩野派が中心だったことから、円山応挙を筆頭にした円山派は、狩野派に肩を並べるほどの一派だったことがわかります。

1793年、61歳頃から老いによる病と眼病、また歩行も困難な状況になり、制作ができなくなります。ですが、弟子達の支えにより1794年、62歳の時に金刀比羅宮表書院に「瀑布図」と「山水図」を描き、翌年には大乗寺に「松に孔雀図」と言う大作を完成させています。そして、翌年1795年に病状が悪化し自宅で亡くなります。

まずは国宝の「雪松図屏風」から、代表作を中心に見ていきましょう。






円山応挙「雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)」国宝 六曲一双 紙本淡彩 1786年(天明6年)頃 三井記念美術館

応挙が54歳頃に描かれたとされています。3本の松がモチーフで、右隻に老松、左隻に若松が描かれています。顔料には墨と金が使用され、雪の白は、紙の白が生かされています。
人物も物語もなく、あるのは3本の松のみ。松の力強さとしなやかさ、松のある風景の美しさに焦点が当てられています。紙の白で表現された、松に積もった雪がとても美しく、柔らかく積もった雪は量感や質感が巧みに表現されています。
円山応挙「雪松図屏風」

「雪松図屏風」右隻

円山応挙「雪松図屏風」右隻

「雪松図屏風」左隻

円山応挙「雪松図屏風」左隻

円山応挙「郭子儀図襖(かくしぎずふすま)」紙本金地着色 1788年(天明8年) 大乗寺

唐の玄宗皇帝に仕えた名武将・郭子儀は、人格円満、子孫も反映した人物でおめでたい画題で町人に喜ばれました。唐子の表情や姿が愛らしく、遊びたわむれる唐子を郭子儀が見守る図となっています。

「郭子儀図襖」部分

円山応挙「牡丹孔雀図(ぼたんくじゃくず)」 重要文化財 一幅 絹本着色 1771年(明和8年) 相国寺蔵

円山応挙「牡丹孔雀図」
中国絵画で頻繁に登場する動物の孔雀と植物の牡丹を描いた応挙が39歳時の作品。装飾的な要素が強く、箔を貼ったり金泥の使い方に工夫がされています。

円山応挙「朝顔狗子図杉戸絵」 二面 板地着色 1784年(天明4年) 東京国立博物館

応挙といえば、犬!!!と声を高らかに言われる方も多いと思います。もしかしたら、「雪松図屏風」より有名かもしれません。応挙の描く動物、特に円山応挙の犬はフモフモ度合いが素晴らしく、思わず抱き上げたくなるほど可愛いです。「朝顔狗子図杉戸絵」は5匹の子犬と朝顔を描いた作品です。朝顔の凛々しさと、子犬達の可愛さが印象的な人気の作品です。元は、尾張の明眼院の障壁画だった作品です。
円山応挙「朝顔狗子図杉戸絵」

「朝顔狗子図杉戸絵」 拡大

円山応挙「朝顔狗子図杉戸絵」

円山応挙「時雨狗子図(しぐれししず)」 一幅 絹本着色 1767年 個人蔵

あまりにコロコロして可愛すぎる2匹の子犬。雨が降っていますが、ニコニコしながら地面に水たまり?を覗き込んでいます。応挙が35歳の時の作品です。

円山応挙「狗子図(ししず)」一幅 絹本着色 1767年(安永7年) 福井・敦賀市立美術館蔵

応挙犬






円山応挙「幽霊図(ゆうれいず)」 一幅 絹本淡彩 1772〜1780年 個人蔵/カリフォルニア大学バークレー美術館寄託

脚のない幽霊画というイメージを作り出した作品と言われていますが、17世紀末の浄瑠璃の挿絵にすでに登場しています。脚のない幽霊画の創始者というよりは、この作品によって広まったと考えられています。
円山応挙「幽霊図」

円山応挙 写生帖より「コオロギとイナゴ」 紙本墨画淡彩 東京国立博物館

応挙は、常に懐に小さな冊子を入れて持ち歩き、時折写生を行っていたことが記録されています。ここで描かれている昆虫はコオロギやイナゴなどのバッタです。一方向だけでなく、ひっくり返したりするなど様々な角度から観察し描かれていることがわかります。
円山応挙 写生帖より「コオロギとイナゴ」 

円山応挙「百蝶図」 1775年(安永4年)一幅 絹本着色 水府明徳会・徳川博物館蔵

写生帖を元にした作品。様々な種類の蝶が舞っていますが、個々の蝶の形は正確でも、飛ぶ時間や季節などは、生物学的にみて正しくはなく、あくまで絵画の中で成立している光景です。浮世離れした白昼夢のような非現実的な光景に見えますね。
円山応挙「百蝶図」

円山応挙「山水図」 1794年(寛政6年) 紙本金地墨画 香川 金刀比羅宮蔵

金刀比羅宮書院において「上段の間」と「山水の間」は仕切りのない部屋。「上段の間」はその名の通り一段高くなっているため、山水画を眺めることができます。部屋の角に大きな岩を配置することで、岩が立体的に見えるように構成されています。

円山応挙「瀑布図」 1794年(寛政6年) 紙本金地墨画 香川 金刀比羅宮蔵

垂直に流れ落ち、岩の合間を縫って有機的なうねるようなフォルムで水が表現されています。「雪松図屏風」と同様に、水は顔料を使って描かれているのではなく、紙の白を活かして描かれています。奥から手間に、描かれた瀑布が現実に流れ込んできそうな構図が採用されています。1795年絶筆のなった「保津川図屏風(ほづがわずびょうぶ)」も同じような構図で、瀑布が描かれています。

以前に、江戸時代の絵師達がモチーフにしたが描かれた作品を紹介しておりますので、合わせてどうぞ。応挙の犬もありますよ。以下。
・コロコロ、フモフモ!!江戸時代の絵師が描いたワンコたち(9選)






参考文献

かわいい江戸絵画
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